2010年12月13日月曜日

マエストロ・エンリケ・モレンテ


まるで昨日のことのように思い出す。

あれはいつだったか、もう10数年前のこと、マエストロ・エンリケ・モレンテと私は、マドリード発セビージャ行きのAVE(新幹線)に乗っていた。カルロス・サウラ監督の映画『フラメンコ』の撮影に向かう為だった。セビージャのエスタシオン・ノルテでの撮影。本当に、まるで昨日のことのように思い出す。

撮影の数週間前、音楽プロデューサーで私の友人のイシドロ・ムニョスからの電話を受けた。エンリケは映画でマラゲーニャを歌うから、その準備をしておいてほしいとのことだった。私は、エンリケと共演できることを心から嬉しく思い、撮影当日までの数週間、自宅のスタジオにこもり、エンリケのために、かっこいいファルセータを作曲しようと張り切っていた。

そして、撮影当日。ファルセータは完璧に仕上がり、集中した基礎練習のおかげで、指の状態も最高潮。そして何より、エンリケとの掛け合いにワクワクしていた。

そして迎えた本番。カメラもライトもセッティングされ、ウォーミングアップをしながら待っているところに、エンリケがこういい出した。「カニ、俺のこと、スペインから追っ払いたくなるかもしれないけどな、今日はシギリージャが歌いたい気分なんだ」「ああ、エンリケ。マラゲーニャを準備して来たけど、まあ、その、どうしてもシギリージャを歌いたいなら、もちろん喜んで。。。」監督と音楽プロデューサーは、なんとかエンリケを説得しようと必至だった。「エンリケ、そうは言っても、もう全部マラゲーニャってことで準備が整っているし、なんとかマラゲーニャでお願いしますよ〜」。

でも、一体誰がこの『天才』の意見を変えられるだろうか?数週間に渡ってスタジオにこもり、やる気満々で完成させたマラゲーニャのファルセータはゴミ箱行き。撮影はいったん休憩に入ったものの、1時間後に再開される。たった1時間!この短い時間の中で、マエストロ・モレンテの歌を引き立てる、気の利いたファルセータを幾つも作曲しなければいけない。そう思うが早いか、私の頭はマッハのスピードで回転しはじめていた。よ〜し、こうなったら意地でも超カッコいいファルセータを作曲するぞ!身体の内側から、闘争心にも似た熱い思いがこみ上げて来た。でも、その一方で、もう一人の自分がつぶやいていた。「ありえない!」

更に私をナーバスにさせたのは、撮影はアフレコではなく、全てライブということ。もし失敗したら、全て撮り直しか、納得いかないテイクが採用されてしまう。ここは、一発勝負にでるしかない!そんな背水の陣で迎えた撮影だったが、ひとたびカメラがまわり始めると、これまでの緊張や不安がウソのように消え去った。マエストロの歌声は耳から入ってくるというよりは、心の芯に突き刺さるように響き、自分でも信じられない程の深い感情を呼び覚ました。そして泉から湧き溢れるようなインスピレーションは、いとも簡単にメロディーやファルセータを紡ぎ出してくれた。撮影が終わる頃には、あの数週間に渡って編み出したファルセータのことなど、頭の片隅にも残っていなかった。

撮影終了後、夕食をとり、その後エンリケと私と、親しい友人ほんの数人で、セビージャの隠れ家的な飲食店へ行った。夜も更けて来た頃、もう他の客もいなくなったので、貸し切りにすることに決め、店を閉めてもらった。秘密裏に開かれる「フエルガ・フラメンカ」の始まりである。もちろん、私はギターを持参していた。その場にいあわせたのは、エンリケと私と、他には3〜4人の友人だけだった。エンリケはブレリア、タンゴ、ファンダンゴ、ソレア、と気の向くままに歌いはじめ、早くもいい雰囲気になって来ていた。皆がエンリケの歌にうっとりしていると、突然こう言い出した。「カニ、カポタストを2フレットか3フレットにつけてくれるか?マラゲーニャが歌いたい気分だ」

不幸中の幸い?とでも言うべきか。思いがけないところで、映画の為に作曲したファルセータを披露する機会が訪れた。マエストロの歌声を聴いていると、地平線が見えなくなるほど遠くへ沈み、空を舞うような感覚に包まれ、完全に彼の世界、エンリケ・モレンテの宇宙に引きずり込まれた。迸る感情。はからずも涙が溢れ、ギターを弾く指がその場で凍り付いた。激しい情動。その瞬間、モレンテの催眠にかかってしまったかのように、カンテに伴奏するコードを弾くことが出来なかった。

そして次の瞬間、ふと我に返った。エンリケが詩の一節を歌い終えたとき、全魂を込めて、エンリケの為に作曲したファルセータを思い切り弾いた。エンリケはゆっくりと瞼を閉じ、ギターの音色に身を任せるように微笑むと、やがて次の詩を歌いはじめた。思い出しながらこれを書いている今も、あの時の感覚が生き生きを蘇り、また一筋の涙が頬をつたう。

マラゲーニャを歌い終わると、エンリケはおもむろに立ち上がり、考え込むような眼差しで私をみるとこう言った。「カニ、スゴイ隠し技があったんだな。こんなファルセータがあるって分かってたら、撮影のときシギリージャじゃなくて、マラゲーニャを歌ったのに、なんで言ってくれないんだよ。ああ、やっぱりマラゲーニャを歌うべきだったよ!」

マエストロ・エンリケは、私にとってあまりに大きな存在だった。素晴しいたくさんの思い出を残してくれた。家族の一員のようだった。彼から教わったことは計り知れない。フラメンコについても、人生の哲学についても。

マエストロ、聞こえますか?私は、あなたに借りがあるままです。あの夜、感情の大波に飲まれて、弾けなかったマラゲーニャのコード。いつかまたどこかであう時までのお預けになってしまった。どうか、私たちを残して逝かないで下さい。まだたくさんやり残したことがあるじゃないですか。もっとあなたの歌に伴奏したかった。もっと一緒にたくさんのプロジェクトもやり遂げたかった。そしてなにより、あなたと一緒に歩みたかった。私も不死身ではないから、きっとまたいつか、どこかで会えるはず。あなたが口癖のように言っていた言葉を、今、改めてかみしめます。「生きているって、それだけで奇跡だ」。でも、エンリケ、あなたは私の心の中でまだ生きています。私の魂の中で、これからもずっと生き続けます。エンリケ、尊敬の念が尽きません。安らかに眠って下さい。



Enrique Morente - seguiriyas

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